2019年5月30日(木)
法則4:人は自分がしてあげたことを過大評価する。
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 人は自分がしてあげたことを過大評価し、してもらったことを過小評価する

 「自分は別に誰の世話にもなっていない」「人に助けてもらう必要もない」そう思っている人は少なくないはず。

 私たちは自分が人からしてもらったことは忘れやすく、自分が人にしてあげたことはよく覚えているものです。

 たとえば、友人に対しては「あのとき、お金に困っている様子だったから、少し貸してあげた」「日曜日に、ほんとは休みたかったけど、引越しを手伝ってあげた」「夜中の電話に付き合って、失恋の悩みを聞いてあげた」など。「…してあげた」「あげた」「あげた」

 夫婦の場合、たとえば夫は「自分は家族のために残業までして働いて(やって)いる」と思い、妻は「夫や子供のために、自分は我慢して家事をやって(あげて)いる」と思っていることがあるかもしれません。親ですら自分の子供に「育ててやった」「これだけのことをしてやった」という意識を持つことがあります。親が自分の子供に「親に感謝しなさい」と言うことすらあります。

 「してあげた」側に立つ私たちは、自分がしてもらったことはすっかり忘れています。夫は妻から、妻は夫から、してもらったことを思い出さず、親は子供から与えてもらったものがあることに気づきません。

 友人や夫婦、親子関係に限らず、世の中の人との関わり全般において、私たちは「誰の世話にもなっていない」と感じることが多いものです。

 でも、自分のハートに触れてみたら、思い浮かぶことがあるでしょう。「そうだ、若いころ、お金が無いときにはいつも先輩がおごってくれた」「仕事がうまくいかなかったとき、友達だからと無理な頼みも聞いてくれた」「妻が少ない給料のなかからやりくりしてくれている」「夫が休日は疲れているだろうに、ドライブに連れて行ってくれた」「子供がいるからこそと、経済的に苦しいときもがんばってこれた。むしろ、子供に支えられてきた」など。

 


たくさんのしてもらったこと、与えられたことがあるのではないでしょうか。

 けれども、私たちは自分がしてもらったことよりも、してあげたことのほうを高く評価しがちです。自分がしてあげていることを過大評価し、してもらっていることを過小評価する傾向があるのです。そこから「感謝されるべきはこの自分である」という思い上がりが生まれてきます。

 私たちは友人や家族など身近な人によって、また人生のさまざまな局面で出会う人々によって、支えられています。別にそのことに感謝などしなくても、支えられています。この世界で、たった一人で何ができるでしょうか?

 このあまりにも当たり前のことを、「してあげている」意識は忘れさせ、私たちの心から感謝の気持ちを失わせてしまうのです。

 ですから、「感謝されるべきはこの私」ではなく、「してもらったこと」を感謝する、感謝できる側になりたいものです。

 古より、聖人・聖者と呼ばれてきた人々は、感謝の念に満たされているものです。神への感謝、周りの人びとへの感謝、動物や植物への感謝、この世界への感謝、生かされていることへの感謝、苦難を与えられたことへの感謝。

 そんな風に、何事にも感謝できるようになったなら、私たちは聖人聖者への一歩を踏み出したことになるのかもしれません。
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