2019年6月20日(木)
天使目線の心理法則04:人を単なる類型に閉じ込めるパターン
img01

あなたも「いるいる、こんな人」の一人にすぎない!?

 
 人はみな類型的である。

  文学作品の批評などで、批評家が「登場人物が類型的すぎる」というとき、それは人物描写が薄っぺらいということを意味しているようです。
 しかし、人を類型的に描き出すのは、それはそれでなかなか大変なことです。ただそれは、いわゆる純文学作家や私小説作家の仕事ではないということなのでしょう。こういった作家は、もとより人間の類型より個人の内面を描き出すことが真骨頂であるわけですから。

 文学的な表現世界から離れてみれば、人はみな類型的です。人は誰でも、自分で思っている以上に、「よくいるタイプ」なのです。

 あなたが周りの人と誰かの話をするとき、「あの人ってこういうタイプだよね」などという話で盛り上がることはありませんか。自分のことを「私ってこういうタイプなの」ということもあるかもしれません。

 人の性格というものは類型化すればするほど、面白おかしぐ語ることができます。それは文字通りステレオタイプになり、漫画的になっていきます。

 じっさいには、そんな典型的な人物はいないだろうというところまで煮詰めてみても、いるのです。類型的な、あまりに類型的な人々が……。



 自らが類型にとどまるパターンがある。

 「たとえば、競争意識が強く、見栄っ張りで自慢話の多い人。そういう人は、初対面のときに一目で相手の頭のてっぺん からつま先まで見下ろすような態度で値踏みするものです。話の端々に自分のことや自分と関係のある誰かについて、「知り合いの誰々は、こういう肩書を持っている人で」とか「うちの甥っ子は(一流企業の)どこそこに勤めてて」などと、ステイタスをにおわせます。

 また、例えば「宴会要員として重宝がられ、コンパやイベントになると急に張り切る人がいますよね」などという話になると、「うちにもいるいる、そういう人」と思い当たる人がいたり、「いつも文句ばっかりで、ぜったい人をほめない。うるさい人が…」という話になると、あの人もそうだと思い当たることがあるものです。

 ステレオタイプが当てはまりやすく、「いるいる、こんな人」と思い当たる人ほど、周囲の人からはちょっと困った人と思われていることが多いものです。

 精神的に未熟な人ほど、類型的な言動が目立ちます。そういう人は自分自身を客観視することができにくく、自分の性格=性格パターンを丸出しにしてしまうのです。

 これは他人事ではなく、もしかしたら、あなた自身もそんなふうに受け止められているということもありえます。たとえば、「ほら、あの愛想の悪い人」「気の強そうな人でしよ」とか、「典型的な公務員みたいなタイプ」「なんか暗い感じの人」など、言われてみれば皆が「はいはい、あの人ね」と思い当たるような、「「いるいる、こんな人」の一人なのかもしれません。
 
 私たちは外からの刺激に対して反射的に反応します。こう言われたら、ああ言う。ああ言われたら、こう感じる。こう感じたら、ああいうふうに反応する。反応したら、こういう行動に出る。そういった反応の連鎖は一人の人間のなかで、だいたい決まったパターンを取っています。

 一人の人間の考え方、感じ方、行動の仕方には、ある一定のパターンがあり、私たちは自分の持つパターンからなかなか抜け出せません。

 そして、同じようなパターンを持つ人は、お互いにみなよく似ています。人はみな類型的なのです。自分が類型的であることに気づかないままだと。意識の領域が狭くなり、思考や感情、行動がパターン化してしまうのです。




 パターンに気付くことから、個性化への道が開ける。

 類型から抜け出すためには、まず第一に、自分の持つパターンをよく観察することです。ふだん気にとめないでやっていることに客観的に目を向けることが必要になってきます。

 自己観察。自分を少し引いたところから眺めてみる。観察される自分と観察する自分がいなければ、自分のことはわかりません。

 「人はみな類型的である」とか、「私たちは自分で思っているほど個性的ではない」という考えは、どこか不快で、あなたをいらだたせるかもしれません。それはちょうど順番待ちの列に並んでいるとき、個々人のことにまで気が回らない人員整理係から、「そこのメガネ」とか「青いTシャツ」などと呼びかけられたときのような、嫌な感じを伴っています。

 自分が個人として尊重されていない、十把一絡げに扱われているような感じですね。私たちは自分の個性というものを尊重されたいと思っているものです。

 とりわけ自分が特定のタイプに分類されることに反発を抱きやすい人たちがいます。その人たちは「自分はどんなタイプにも当てはまらない」「私は他の人とは違っている」「どこか特別なところのある人間だ」と強く主張することがあります。

 皮肉なことに、そういった自意識を持っている人たちの性格傾向は共通しており、その人たちをひとまとめにして、「個性的でありたいタイプ」と呼ぶこともできてしまうわけです。「自分は他の人とは違っている」「私はちょっと変かもしれない」と感じる人も数多くいるわけです。

 「個性的でありたい」人ですら、類型化をまぬがれることはできず、同じようなことを口にする。本当に個性的であるということは、なかなか難しいものなのです。

 「個性的でありたい」人は、どこまでも自分と他人との違いにこだわります。違いにこだわろうとすれば、「自分を個性的に見てもらおう」という結論に導かれるのは当然のことです。かくして、「個性的でありたい」人は、自分を「個性的な人」と見なし、その自己イメージを他人に押し付けようとします。「個性的な人」であるために、じっさいに人と違った行動を取ろうとしたり、ちょっと変わった自己表現をしようとしてみたりして、ユニークな自分を印象づけようとするのです。

 それがうまくいかなかった場合には、他人を平凡な俗物とみなし、取るに足りない人間のように扱うことによって、自分のユニークさを保とうとするかもしれません。ちょうど、かの人員整理係のように、他人を「そこのメガネ」や「青いTシャツ」としか見なさなくなるのです。それは自分がいちばんされたくないことを他人に対してやっているということになりますね。これはまあ、なんとも皮肉なことです。

 悪魔の法則⇒人はただ刺激に対する反応の生き物、すなわちパブロフの犬のようでもある。いつも同じような思考法で、それ以外の考え方ができず、本来さまざまな可能性に開かれているはずの思考空間は暗く閉じたまま。
 いかなる体験においても、去来する感情は似たようなもので、それは感情であるとも言えず、刺激に対する生理反応のようなものであるにすぎない。自らはそれが最善の道だと思いまっすぐ進んでいるつもりが、結局は元のところに戻ってくる。性格の無限ループ。そうして、神的なるものへと人を向かわせないことこそ、悪魔の思うつぼ。

 天使の法則⇒真の個性化の第一歩は自己観察から始まる。自らの思考や感情、反応の仕方に一定のパターンがあり、そのパターンを何度も繰り返していることに気付く必要がある。自己観察とは自らを客観的に見ることということは言えるが、単に客観的に見るということではない。
 自己観察にはまさに神に近い天使的目線が必要になってくる。自分は宇宙のほんの一部でありながら、宇宙全体から自分を眺める。神的なものに近づくことは、個性をなくすることではなく、むしろ個性化の道を歩んでいくことになる。
最新の記事